橋田壽賀子の経歴がすごい!幼少期から有名脚本家になるまで

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昭和平成を代表する国民的人気の名作を数々生み出していた脚本家の橋田壽賀子。2021年4月4日に急性リンパ腫のため死去。95歳でした。今回はそんな橋田壽賀子の経歴がすごい!幼少期から有名脚本家になるまでまとめます。

橋田壽賀子の経歴がすごい!韓国で生まれ日本へ?

昭和平成を代表する国民的人気ドラマの脚本家を務めた橋田壽賀子。

一時はタレントとしても活躍し、その顔やキャラクターも有名となりました。

多くの人から愛される作品を生み出していた橋田壽賀子が、2021年4月4日に急性リンパ腫で死去。

95歳でした。

今回はそんな橋田壽賀子の経歴についてまとめてご紹介していきます。

幼少期から有名脚本家になるまで…波瀾万丈人生がすごい!

橋田壽賀子は韓国生まれの日本人!

まずは、橋田壽賀子の出身地についてご紹介します。

橋田壽賀子は1925年5月10日に京城府(現・韓国のソウル)で生まれています。

あれ?橋田壽賀子って韓国人だったの?と疑問に思う方もいると思いますが、それは違います。

橋田壽賀子は当時の日本領だった京城で生まれた純日本人です。

幼少期は両親が大変忙しかったため、「オモニ(韓国語でお母さん)」と呼ばれる近所の主婦に世話をしてもらっていたそうです。

そして、日本で教育を受けさせたいという両親の意向もあり、小学4年生になる前に母親と一緒に日本へ移住しました。

橋田壽賀子は小学4年生で日本に

橋田壽賀子が小学4年生から過ごしたのは大阪府堺市でした。

これまで京城府で育っていたため、標準語だった橋田壽賀子。

大阪に行くと関西弁ですから、当初はイントネーションを指摘され「朝鮮人!」といじめにあっていたとのこと。

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(ちなみに後列の左端が橋田壽賀子)

しかし、橋田壽賀子は大変負けん気が強く、取っ組み合いの喧嘩が相手を負かせてしまう…なんて一面もあったようですw

そして、どんどん関西弁をマスターしていったみたい。

橋田壽賀子の高校時代、作文で賞を取るも…?

橋田壽賀子は小中学校を卒業後、大阪府立堺高等女學校(現:大阪府立泉陽高等学校)へ入学。

何と当時の橋田壽賀子は文章を書くことが苦手で、作文の課題をお母さんに書いてもらったことがあるそうです!!

しかも、それが堺市から表彰される事態にw

当時の橋田壽賀子は「私が書いたんじゃないのに」を困ってしまったみたい。

https://i0.wp.com/koimousagi.com/wp-content/uploads/2020/09/hashidasugako_koukoujidai.jpg?zoom=2&w=230&quality=100&ssl=1

いや〜

それにしても、これまで膨大な文章を書いてきたであろう橋田壽賀子は高校時代、文章を書くことが苦手だったなんて!!

人生ってどうなるかわかりませんよね〜

橋田壽賀子の大学時代は?

そんな高校時代を過ごした橋田壽賀子は苦手なりに文章を書くことを好んでいたようで、日本女子大学文学部国文学科に入学。

関西の高校からどうして東京の大学に行ったのかというと、橋田壽賀子の母親との関係にあったようです。

橋田壽賀子は自身の母親の愛情をとても重く感じでおり、親元を離れたい!そう思って母親にも内緒で東京の大学を受験していたのです!!

驚きですね!

無事入学するも、日本女子大学文学部国文学科では他の学生との格差や差別に苦しむことになり、悔しい思いを抱えながら学生生活を送っていたそうです。

まぁ時代が時代ですしね〜

その後は学者になるために東京大学を受験するも失敗。

早稲田大学第二文学部国文科に入学し、その後芸術科に転科の演劇専修に移り、最後は中退しています。


橋田壽賀子の経歴がすごい!松竹入社から有名脚本家へ

さて、これまで幼少期から大学時代までの橋田壽賀子の経歴を振り返ってきました。

ここからは大人になった橋田壽賀子の経歴をご紹介していきます!

橋田壽賀子は松竹の脚本部門へ

早稲田大学を中退後、橋田壽賀子は松竹へ就職!

脚本部門へ所属されることになりました!

何と橋田壽賀子は松竹初の女性社員として入社していたそうです。

当時は今以上に男尊女卑がすごかったでしょうから、橋田壽賀子は相当優秀な人物として認められたんでしょうね〜

その後、数々の映画脚本を担当。

そして、秘書への異動を提示されたと同時に松竹を退職。

作家として独立することになります。

橋田壽賀子が脚本家として独立、結婚も

独立して何年かはテレビ局への売り込むも全く採用されなかったのですが、1964年に東芝日曜劇場「愛と死をみつめて」の脚本が話題となり、知名度を高めて行くことになりました。

そして、1966年に当時TBSプロデューサーだった岩崎嘉一と結婚。

1983年にはドラマ「おしん」の脚本を担当し、大ヒット!

多くの人に脚本家、橋田壽賀子の名を知らしめ、国民的ドラマとして現在も語り継がれています!

良いことばかりが続いていたように見えたのですが、1988年に夫が肺腺がんの宣告を受ける事態に。

そして、1989年に死別しています。

橋田壽賀子は若くして両親を亡くし、やっとできた唯一の家族である夫を亡くしてしまった…大変辛い時期を乗り越えてきたのですね。。

橋田壽賀子、タレントとしても活躍

そんな橋田壽賀子はその後も「渡る世間は鬼ばかり」「なるようになるさ。」など、多くの大ヒット作品を生み出していきます。

そして、脚本家としてだけではなく、1990年代後半には「笑っていいとも!」にレギュラー出演。

タレントとして「スガコブーム」を巻き起こしました!

何でもズバズバ言う、それでいて上品なキャラクターはすっかりお茶の間の人気者になりましたw

橋田壽賀子が手がせるドラマ作品の常連である女優の泉ピン子との共演も多かったですね〜

橋田壽賀子の晩年は?

ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」が終了し、スガコブームが去った後、橋田壽賀子をテレビでお目にかかるシーンがグンと減ることになりました。

橋田壽賀子は静岡県熱海市に自宅を構え、世界各国を海外クルーズで旅をする、、なんて優雅な日常を送っていたようです。

橋田壽賀子は泉ピン子とは親子以上の関係を築いていたようで、一緒に旅行に行ったり花火を見に行ったりと、多くの思い出を作っていたとのこと。

そして、急性リンパ腫になった際、一度手術を受けるもこれ以上良くならないとわかり、自宅療養を送ることに。

最期は家族同然の泉ピン子と多くのお手伝いさんに見守られ、息を引き取ったそうです。

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まとめ

今回は橋田壽賀子の経歴についてまとめてご紹介しました。

いや〜橋田壽賀子の人生って本当に理想的ですよね。

自分の才能を最大限に活かした脚本の仕事で大活躍し、最期は愛する人たちに見守られ逝く。。

しかし、それに至るまで多くの努力と多くの悲しさを乗り越えてきたと思うと…とっても強い人間だったんだろうなと尊敬します。

橋田壽賀子の作品は令和の今でも多くの人に愛され続けることでしょう。

橋田壽賀子さんのご冥福をお祈りいたします。



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